私のアマチュア無線の歴史
これは私(1945/7/22生まれ)の記録と記憶に基づき年代別に歴史背景も踏まえ書こうとしています。
電気への興味は色々な手作り遊具からの発展で、その頃どんな物を制作したかも書きます。
逐次追加挿入を予定しています。思い出、ご意見のある方はメールに投書して下さい。
- **少年期**
- 電気に関心を持つ
近所の磯鉄自転車屋で懐中電灯の使い古し乾電池を貰い(後に海岸のごみ捨て場に沢山捨ててあるのを発見)敷居のみぞに直列に並べて豆ランプを点灯(小1)
時代背景:ある日アメリカ進駐軍の二人の乗ったジープが校庭に乗り込んできてグランドを一周した、皆が窓から"進駐軍だ!"と叫んだ。(この頃名古屋の駐留軍が内海海水浴場に行くため軍用トラックやジープ、サイドカー付きオートバイで舗装のされていないジャリ県道を連隊を組んで埃をたてて走行するのを見ていた、私たちは"チュインガム、チョコレート"と叫んで投げて貰った、"進駐軍が来たら家に帰るように!"と、母親(元国民学校教師)に叱られた。)、後から浜島校長先生の話では校庭の東側に在った天皇を奉る社を取り壊す様に命令されたと話された。(小4)
- ラジオとの出会い
お婆さんが大切にしていた3球ラジオ(ST管)(終戦玉音放送を聞いた物)が故障したので分解、解体、内容を日誌に書き松永先生に誉められた。ちなみに父は4球ラジオ(高1ST管)を聞いていた。これも後年故障、解体、5球スパー(MT管現在も保有)に買替えした。(小5)
遊具:かっちん玉(ビィー玉)、おーぱん(メンコ)、くすげっこ(大くぎ使用陣取合戦)、竹で作った(くす鉄砲、すぎ鉄砲、やまぶき鉄砲、紙鉄砲、水鉄砲)、ゴム鉄砲、弓(竹製)、吹き矢(常滑市広目、廣目寺毘沙門様縁日で売っていた、真似て自作もした)
- 初めてのテレビ(白黒)観賞
NHKが小学校に巡回して来て国旗掲揚柱(12m位)に八木アンテナを取付、講堂兼音楽室で映画鑑賞の時と同じように暗くしてクラスごと観た。後に1台購入され授業でも割振りで鑑賞し、土、日も時間制限で見る事が出来た。(この頃まだ電器屋さんにはテレビが無かった)
学校からの帰り道、市田安照君(Sonyから現Canon)と将来は携帯可能テレビが出来るだろうと論議し合った。道路にはビスモーター(自転車に小型発動機を取付けた物)が流行しかけていた。(小5、6)
- 鉱石ラジオの作成
鉱石ラジオのキットを常滑市古場に在った豊ラジオで買った、母屋の道側に建増した細長く狭い店だったが、おじさんは親切に作り方を教えてくれた、部品は直径1cm、長さ4cm位の鉱石検波器(ダイオード)、コイルを巻く花びら状厚紙、小型バリコン、クリスタルレシーバー等で、後はビニール被覆銅線、半田ごて、半田、ペースト、ニッパーが必要だった。古いエナメル線でアンテナを張り、初めてNHK名古屋第一放送を受信出来た時は嬉しくて母親にも聞いてもらった、"電池も電気も無しでこんなにはっきり聞こえるよ"と言うと、"便利だね!"と、言ってくれた。(小5、6)
時代背景:夏の日、父(上海事変に出兵経験有り)の友人で新舞子の加藤さんの誘いで新舞子海水浴場へ連れて行ってもらった、当時、水族館も在り大変賑わっていた、休憩の家に案内され、板張りの廊下を歩いて行く時、左の部屋を横目で見ると"すのこ"敷きの部屋の台の上で3、4人のアメリカ兵が裸で日本女性と抱き合ってじゃれ合っていた、父は見ぬふりをして通り過ぎ、加藤さんに"進駐軍がきとるなー"と言った。(後に父たちは愛知用水を完成させた。)愛知用水1(pdf),愛知用水2(pdf) この時期、朝鮮戦争が始まり、私達も、お宮さん(神社)の大松を見上げ"マッカーサーだ!"と言って遊んでいた。鉄くずが暴騰し、磁石を引きずってクギなどを集め売った、10円とか20円だったが、兄は海で鉄棒を拾って来て40円だった。ぼっこ屋が川の中の錆びた缶詰の缶まで掘り起こしていた。(小5、6)
台風13号がこの地方を襲い海岸の堤防が流された。(その後堤防が修復されたが、伊勢湾台風で跡形なく破壊される事になる)学校給食でカンパンと脱脂乳がアメリカからの援助として支給された。
- 伊勢湾台風と鉱石ラジオ
伊勢湾台風が来るとのラジオニュースを聞いていたが、まだ家にはテレビは無く、{プロレス等は亜炭(岩木)坑所有の盛田宅(JA2FMRさんの父、*JA2GINの級友)、綿布工場の中野宅、地元のテレビ屋さん(まだ殆ど売れなかった)に見に行っていた}どんな規模の台風か、親も実感が無かった。夜9時半頃、停電となり風が強かったが、床についた、私は停電を予測して鉱石ラジオの受信を整えていたので放送を傍受し続けた、夜10時過ぎ、台風進路が名古屋、伊勢湾地方に最悪で深刻である旨をアナウンサーが悲壮感を持って放送し始めた、父(愛知用水起工の為、多忙であった)は名古屋で仕事の為、帰れ無かったので、母親に話したが、あまり気にしていない様子だった。夜半過ぎ風が強くなり母屋がぎぃーぎぃ揺れるので危険を感じ東の旧家に移った、雨戸は閉めてあったが、特に風が変った時、凄かった(風速60m以上だったらしい)部屋が真空状態に感じ、戸が外に飛ばされると思ったので家族で抑えた、裏の永田さん(川沿いで当家より1.5m位低かった)の家族が高潮と増水の中、床上浸水したのでと、やって来た(台風13号の時は沢田さんが住んでいて避難して来たその時は床下浸水だった)、当家は床下浸水で台風は去っていった。
翌朝、庭には、高潮、増水の為のゴミや飛んだカワラで一杯だった、海(約80m西)を見に行こう県道に出たら漂流物で一杯でゴミの山を越えて歩いた、近所の人が、真空管電池式携帯ラジオ(多分4球スパー)を大きな音で鳴らし、誇らしげに皆に聞かしてくれた(近所には、情報源として、このラジオと私の鉱石ラジオしか無かった)、兵助商店の前の水溜りで沖ガニ(ワタリガニ)が泳いでいた。海に行ったら海岸の堤防はすっかり流され家も無かった、ラワンの大木や漁船が転覆や岸に漂着していた、牛が腹を膨らませ浮いていた、波打ち際には弥富の金魚が沢山海水の中を泳いでいた。
父が名古屋から名鉄線路沿いに歩いて帰って来て、南区の線路は水死体で一杯だったと言っていた。(中1)
- 蛍光灯グロウ管を使った雑音送信機
棒状蛍光灯がパカパカしだしたので交換、グローランプも換えたので蛍光灯の点灯原理を調査していたところグローが動作する時、雑音が出るのに注目、ラジオで聞いてみると、ガリガリ周波数全体に広がって聞こえました。
コイル等を巻いてアンテナに接続し、鉱石ラジオ(アンテナ1.2m位)で家から東の500m位の坂森(現INAX大谷工場)まで移動して、聞ける事が確認されました。この時はゲルマニュウム検波器を西阿野の久田ラジオ(JA2ILSさんの父経営)から入手感度は向上していました。
時代背景:皇太子と妃殿下の結婚式が行われ、当家にもようやく14インチ白黒テレビが入りました、親戚の森儀電器自転車(野間のいとこ)が、アンテナを屋根に付けに来た時は有頂天でした。
日本油脂が、爆発し小鈴谷の下級生の父親が無くなりました、その前の爆発では、家の東のおじさんが、亡くなっていました、最近の爆発で、3度爆発を経験しました。(中2)
- トランジスターとの出会い
Sonyラジオの中古トランジスター2本を入手、配線図を見て、コンデンサーと抵抗を使用し、電池式アンプを作りました。ゲルマニュウムラジオに接続、音声を増幅してクリスタルレシーバーで確認しました。トランジスターはまだあまり使われていませんでした、ノイズが多かったと記憶しています。
時代背景:農協系有線放送が始まり、電電公社に先駆け工事が始まっていました、電話機とスピーカーを備え放送と通話が出来る物でした。開局前無通電状態で、100m離れた沢田みつる君とスピーカーの前で話し、通話しました、開通を楽しみにしていた事を覚えています。(後、筆者大学卒業後入社)(中2.3)
- 真空管送信機と5球スーパーラジオ
夏休みの工作として作品展示室と自分の教室の間でワイヤレス交信公開実験をしようと計画しました、メンバーは、JA2CXQ,JA2DJJ,(故)村上 弘君、久田精一郎君だったと記憶しています、JA2CXQと真空管6BE6混合管を使用ワイヤレス送信機2組製作、受信機は家庭用5球スーパーラジオ、周波数は中波、CBCの上下の混信の無いところ、特に夜間は混信が多かった。
JA2CXQとは直進で家から400m位、久田精一郎君は大谷鴨で1Km位、村上 弘君は坂井で5Km位の距離だった、アンテナ、送信機等試行錯誤の結果、どうしても村上 弘君の所まで電波が届かなかった。
夏休みの作品展示公開実験は成功(100m位)したが、先生達の評価は数学、理科担当の大岩先生{九州大学卒業、後、戦時中、日本軍機関研究所でロケット戦闘機"秋水プロジェクト"で、夜間でも確認出来る航空地図等、開発担当、Sonyの盛田 昭夫さん(常滑市小鈴谷生まれ)とは研究所で知っていたそうで、部門は違っていたが、合った事もあられると言われていました、彼は大阪大学を卒業後、今の電磁波、レザー光線の研究をしていたらしいとの事です。終戦後、私の生家の川の西に帰郷(家は戦前、造り酒屋、父は九州大学教授)、中学講師をされていた、後に、千葉大学を経て九州工業大学教授となる}を除いて、中学生としては高度すぎる、お金を必要とするで低かった。(入賞等無し)(中2.3)
- アマチュア無線家JA2RFとの出会い
今の常滑市坂井公民館近くにJA2RF、永田さんが無線局を運用されていた、自作無線機、多くの部品、素晴らしいアンテナに、身震いを感じた、JA2CXQ,村上 弘君と、訪れた時、3.5M、7Mでの交信を披露してくれた。
日本中どこまでも電波が届き、確かに応答してくる、不思議さえ思った、この感激は今でも忘れられない、好奇心の原点に成っているとこも言えるかも知れない。
JA2RFさんは名古屋にお住まいで21M(SSB)で最近、交信した事も有ります。
- **高校時代**
- 常滑市文化祭でのOM、JA2IB,JA2IF,JA2ABN,JA2ACH,JA2BSFの威厳
毎年11月3、4日は文化の日として常滑小学校で文化祭の展示会が盛大に行われていた、アマチュアー無線も教室一部屋を貸しきり公開実験を行っていた、私は中学生時代から関心を持ち、家から7Km位を自転車で向かった、開催日が、近ずくとOM(先輩)さんたちが、仕事(絵電気屋さんが多かった)の合間を見てアンテナの調整、無線機の調整、会場のセッティングに励んでいた。私は簡単な仕事をやらしてもらいたくてその場を離れなかった。文化祭の前日と、二日目は交代で泊り込んだ。私の家は兼業農家だったので、丁度この時期、土、日曜日を稲こきが重なる事が多く、昼からから手伝いが終わると直.に自転車で走った、夜も徹夜で何回も泊まらせて頂いた。内容は始めのころは3.5M、7M、のAMが中心だった、免許を取った初心者は、先輩の指導、援助を受け、無線機を自作し、ローカルバンド3.5Mから開局し、地元、浜向こう(鈴鹿市、四日市市、津市、伊勢市)から交信して経験して行くのが登竜門だった。先輩達は後輩達に親切で誇りを持っていた。
- 同郷常滑市大谷のJA2CAC先輩
JA2CXQの紹介で同郷のJA2CAC宅を訪問した、無線で傍受した事は有りましたが、アイボール(面会)は最初だった。7M用傾斜型ベントダブレットが狭い敷地に張られていた。自分がアマチュア無線開局を夢みていたので運用局のQSOは羨望の的だった。東京の局と7MでQSO
されたのを家に帰って母親に"大谷から東京まで電波が届いたよ!"と話すと、"そーや"と言って関心してくれた。
後にアマチュア無線を開局し沢山の無線局と交信しQSLカード(自作ガリ版刷)を交換した。ある日伊勢方面の無線家の母親から手紙が届いた。内容は無線の大好きな息子さんが亡くなられたとの文面だった。母親に読んでもらうと涙ぐんで長々と返事を書いてくれた。
- 自作AM受信機と7MAM送信機
開局をする為、まず、アマチュアー無線局用受信機が、必要だった(父が持っていたジェネラルの5球スーパーは短波の切替が有り7Mバンドは微かに聞く事が出来た)、手伝い、お年玉、小遣い、アルバイトのお金を蓄え準備した。主な部品は、コイルパック(周波数切替用コイル)、バリコン、バーニアルダイアル、IFT、アルミシャシー、真空管、真空管ソケット、CR等だった、部品は刈谷市の中央無線へ自転車で行ったり、国鉄でバスを乗り継いで行った、少しでも部品が買いたかったので自転車行く場合が多かった。CQ誌(無線雑誌)を破れるほど読み配線図を研究した。
アルミシャシーに鉛筆やコンパスで部品配置を書き、手動ドリル、リマー、ヤスリで穴を開けた。工作は朝までかかる事が多かった。アンテナは3.5M、7M用13mH、20mLong、傾斜型T型ダブレット、ポールは竹薮で切って来た、無線室は縁側の廊下の西端で勉強机と工作机とを兼ねていた、冬は日当たりが良く温かかった。
試行錯誤の末、受信機完成!、3.5M、7M帯で、無線家の交信が聞こえてくる、JA1,東京だ!、JA3、大阪だ!夕方になると時間と共に入感する地域が変って行く、JA9、九州が聞こえ出した!、遅くなると、JA8、北海道も聞こえる!
次は、送信機だ!、ジャンクの部品で、自作VFO式7M、AM送信機を作りJA2CXQと調整交信をした。
分解した父のラジオの部品も使った、MODが、6ZP1(変調用トランスは並四電源トランス)、TXが42(ファイナルバリコンは受信用)、お粗末なラインアップだったが、自作アンテナカップラーのネオンランプと給電監視用豆電球が光ると心が弾んだ!、驚くほどよく飛んだ!
- JA2CXQ(半期前),JA2DJK と共に電話級アマチュア無線免許取得
高校入試で国家試験が少し遅れたが、熱田無線学校で電話級試験に合格した。本免許が来るまでに正式な送信機を製作する必要があった。
安定して空中線出力10W、変調器も余裕を持って最大40W(サンスイ変調トランス)、電源回路が費用がかかった、最大150W(伊勢市のトランス屋に特注)を想定した。ファイナルタンクコイルステアタイトバリコン1.5KVも高価だった。
キャリアーラインアップは、標準水晶発信機(3.5M)−自作VFOー逓倍ー逓倍ー終段管(6CG6テレビ水平出力管)−コイルーカプラー-アンテナ
変調器ラインアップは、マイクー増幅ー増幅分配ー出力(6L6P.P)−変調トランス
送信機はアルミパネルにメーターを3個付けた、ファイナルバリコン用バーニアルダイヤルをも付けた、"かっこうがいい!"、変調器はキャリアーシールドの為、スチールボックスに入れた、ダイナミックマイクから話すと2本の6L6のプレートが、青白く発光した。完璧な送信機完成だ!自信を持って相手にラインアップを紹介した!
- 伊勢湾を越えたファーストQSOJA2CLM
地元の無線家とは話していたが、免許を取って初めての海向こうのJA2CLM(鈴鹿市)さんとの初交信は上がってしまい上手く話せなかった。信号レポート、天気、アンテナ、受信機、送信機、無線局ロケーションの紹介を定番通り交換した。
- JA2AVO、JA2CMI、JA2CMJ、先輩、科学クラブ無線同好会設立
高二の時、科学クラブ無線同好会設立、木造二階の校舎と校舎の間に全長20mの7M用ダイポール(TVフィダー使用)を張って放課後、物理室から電波を発信、3.5M,7M,21M,A3で交信した。物理の先生も学校開設以来の同好会に気持よく協力して下さった。
その他のクラブ制作実験では光通信として、CDS、レンズ、豆電球を使い音声で発光強度を変化させ光通信実験1m位成功!、今の光ファイバー通信の前進を試みた。JA2DOU(後にDXer,何故か彼はバク転がすごく上手かった)は後輩で一生懸命手伝ってくれた。
JA2AVO、JA2CMI、JA2CMJは、2つ先輩で色々無線クラブのミーティングなどでお世話になった。
- JA2EEO国内最年少(小学校6年生)アマチュア無線局誕生!
6月1日は電波の日と制定され、この日に合わせて"最年少アマチュア無線局誕生!"と銘うってCBCテレビが常滑市樽水のJA2EEO局を取材し、番組を作るとの話がJA2BSF局から有った。私とJA2EEO局との交信を録音したいとの事だった。一生懸命練習し巧く収録出来た。
ヘリコプターまで出てEEO局の家やアンテナを映し放映された。
- 高校時代JA2DEXとの3.5Mでの将棋
彼は常滑市保示に住んでいた、西に海の見える少し高台の家で戦前には名古屋に本宅が有りその別荘だったらしい、彼とは3.5MA3でQSOして知り合った。横須賀の高校に通い、兄弟3人と母親と住んでいた、送信機は6BM8一本で変調器と送信機を構成していた、マイクはアイワの小型カーボンマイクだったかも知れない。受信機は人に借りた高1中2のメーカ製キットだったと思う。DEX局がオペレートしているとバンド中スプラッタでどこでも聞こえた。
アンテナは、其のころ兵善組が海岸を埋め立て工事していたのいでパンザマスト(20M位)の上の方に引っ掛け傾斜型ダブレット、給電方式は、割り箸をロウで煮てセパレターとした物だった。とにかく良く飛んだ特に九州方面は強かった。この時愛知県と九州では日の入りが40分位違う事を実感した。日曜など暇な時は2人で無線で将棋を楽しんだ。今私は、ネットの"ハンゲーム"で将棋を全国の人と楽しんでいますがその走りだったかも知れない?。
- JA2CWXの21Mでの英語QSOを聞いて
JA2DEXの高校の同級生でJA2CWXに保示で会った、彼は主に21MAMでDXを得意としていた、英語でアメリカ等と交信しているのを聞いて身震いした。後に、PSN(SSBの初期)で送信機を運用していた。その後、私とJA2DEXは共にMT真空管30本位使用メカフィルSSBトランシバー設計制作の刺激と成った。私の英語研究の原点はここ有りました。
- 初めての海外DXQSO1エレクワットアンテナ
同級のJA2DJK宅の柿木(5m位)に21Mの竹製1エレクワットアンテナを作り運用した、主に国内DXの為だったがCQをだしたところフィリッピン
のDU1MRが応答して来た。一応日本式の英語QSOは出来たものの後はしどろもどろ相手から"Off and Clear"と言われたのをはっきり覚えている。この事もネイティブスピカーと流暢に話したいと言う願望を私に持たせた。
- トリオオールバンド受信機とPSNSSB送信機
SSBの運用局がちらほら出て来て安定した受信機が欲しかったオールバンドでBFO付が条件だった。CQ誌の"売ります・買います"で東京の無線家からトリオ9R42j受信機を購入した、中古だったが自慢出来る代物だった。PSNSSB送信機の回路図を参照したが上手くキャリヤを消せなかった。
- 大学受験と趣味の一時中止
寝る間をほしみ無線機器制作に没頭していたが、色々有り2年間以上、無線機器を押入れに封印した。(回路図は暇を見て研究した。)
- 2級アマチュア無線免許取得
一応、私学の電子工学科に入学出来たので待ちに待っていた無線を再開した。
- JA2FMRと50M(AM)
彼は同郷の2つ後輩で中学生の頃からJA2CXQの家に近かったので遊びに来ていた。父親は小学校の校長を退職後、亜炭の炭鉱を経営していた。裕福で昭和28年テレビ放送が始まるとすぐテレビ受信機を購入し近所の人に見せてくれていた。私もお邪魔して、彼を小さい頃から知っていた.。VHFが好きで自作のクリスタルコンバーターとST管の807ファイナルで送信機を作っていた。よく飛んだが、彼が出ると周りの家のテレビは真っ黒になった。彼とはトランシバーを持って三河の三ヶ根山に運用に出かけた。とにかく熱心だった!。後に、JA2GINさんが半田の高校で同年だった事を知った。
何十年も面会していないので、もし誰かご存知だったら連絡して頂きたい。
- 50M(FM)モービル・トランシーバー井上電機IC-6F
自家用車が普及し始めノイズに強いFMが6mから始まった。井上電機IC-6Fのノイズリミッターは素晴しかった。トリオはスケルチを絞ってもノイズですぐ開いた。ホンダCB250(中古)に取り付けたがノイズが酷かった。その後、カローラに取り付け父親の選挙演説の運転手をしながら運用した。
- 50MFM手動式4エレ垂直アンテナでの常滑大谷-阿久比(JA2KGH)との交信
50M(FM)モービル・トランシーバーを固定局でも運用した。母屋にテレビアンテナ用馬とポールを立て50MFM手動式4エレ垂直アンテナ
を揚げた。大きなアンテナで皆が見上げた。ローテーターが無かったので手動で方向を変えた。屋根のカワラが割れたりぞれた。
常滑大谷-阿久比は北に高砂山が在ったので交信は無理だったがこのアンテナで成功した。
ある夏の夕方、固定を傍受していると、JA2ACHさんから緊急連絡が入た。八百屋さん(無線家)が山海でおぼれた。俺達は今から現場に向かうので中継してくれとの事だった。山海は内海の南で野間岬が邪魔してモービルとの交信は困難だったが急いでビームを向け弱い信号だったが中継出来た。結果は駄目だった。皆が悲しんだ。
- 50MFM運用とFOXハンティング(JA2TFO)
- 常滑無線クラブスキー場大移動
- 大学卒業研究435MモノクロTV送信機(2B94使用)の製作
- 就職と無線活動
- SSBトランシバー設計自作(MT真空管30球位)MF(メカニカル フィルター使用)
受信機、SSBジェネラター完成するもリニアアンプ(6146×2)調整出来ず完成品(トランジスターハイブリット)時代到来!
- VHF50M用FMトランジスターモービルブスター(20W)作製
- 固定局用(100V)VHF144M用FMブースター(2B94使用)100W作製2台(1台JA2CXQ用)
- 英会話学習挫折
常滑市のキリスト教会、半田市のキリスト教会どちらも1週間位で挫折
- 2エレ21M用HB9CBアンテナ自作(エレメント竹)
- 3エレ21M用八木アンテナ自作(エレメント竹)
- 2エレ21M用キュピカルクワットアンテナ自作(エレメント竹)
- 144M用コナーリフレクターアンテナ自作
- HFモービル運用(ヤエスFT-101B100W)7.099M、21M、28M(SSB)
- ベトナム戦争とアメリカハム局ホーンパッチ
アメリカと北ベトナムホーチミン(ソ連、中国支援)との戦争が激しかった頃、HF帯の14M、21Mはアメリカ本土と沖縄アメリカ軍基地とのホーンパッチ(ハム局が電話を中継する)がバンドに一杯に出ていた。家族や恋人が兵士と確認し合うのが手に取るように聞こえた。
父が、"日本は戦争に負けて良かったかも知れない、勝ってたとしたらお前達も進駐軍として戦争に行かなければならない。アメリカは物資が余りすぎて戦争をしている。)と言っていたのを思い出す。
- ICの出現!
自費で、デジタル時計とIC論理回路で自動放送装置設計(TTL使用)完成間近で高電圧ショートでIC破壊断念!メーカ特機自動放送装置(セイコーの水晶時計を基準とするツメセット方式一日数秒狂った)導入(自分の設計の方が技術的には数段上だった、8年後に自分の構想がほぼ実現する事になる)
- PCM多重通信装置(三菱電機製)導入
(自衛隊野戦部隊閉鎖回路実用技術)CMOSIC使用で最新ではあったが、有線放送電話システムは複雑であまりうまく働かなかった,
エラーが多く(スペアナで観ると回線状態が色々な電波で一杯だった、この時の経験から今でもコッパーケーブル、つまり電話線、同軸ケーブルを使ったインターネットADSL等に、信頼を置けなく光ファイバーネットワークに固志する由縁です)、音が悪く、特に雷に弱かった(光ファイバーは強い)、複雑なICボードのシュミレターケージを作り修理した、大阪伊丹から三菱技術者に来てもらうと2人3日位で80万位かかった。しかし、この不都合がIC回路研究の機会となった。
- ロジックIC応用カセットテープ電話呼出応答放送装置(同時に5コール対応)完成実用化
- ロジックIC応用カセットテープ消防火災緊急放送録音電話呼出応答放送装置(同時に5コール対応)完成実用化
- NHK自動修正回路付きデジタル音声告知装置(時報案内アナウンス)完成実用化(同時、1回線のみ)
- 美浜町河和に23メータ高、無線鉄塔建設
144M10エレスッタク、HF3エレトライバンダー取り付け特に144Mは東方向に開けていて茨城県まで届いたJA2DJKが諏訪湖からモービルでメリット5のレポートには驚かされました。中津川からもJA2EEOモービルからもフルスケールのレポートを頂きました。
美浜町河和と常滑市のキネマ映画館のJG2TGCさんとハンデーで交信出来ました。
- 無線家とコンピュータの始まりMZ80B,BASIC等プログラム言語との遭遇
アッセンブラーも解析したが実用プログラムは出来なかった。BASICで当時流行っていた"あみだババァー"の簡単なゲームを作成、息子が喜んだ。
- NECPC88004MClock8Bit(MSDOS)コンピュータでソフト解析
- NHK自動時間調整付き全自動プログラマブル放送搬出装置
(三菱16ビットクロック8MパーソナルコンピュターMluti16使用制御言語にBASICを使っていたので動作が遅かったテープ制御でアナログトーンを使用人間の操作設定ミスが多かった。
- 公共施設電話器からのページング放送装置
電話機はカーボンマイクで音声が割れ良い結果では無かった、IC音声録音再生ボードを採用することは出来たのだが、別にマイクアンプ設置方式(以前から市長、市会議員選挙の体育館からの実況放送装置、筆者作製)を主張したが実現しなかった。
- NEC業務用パソコンNB100でCOBOL学習
- 有線放送とCATVの併用運用を機会事に提案していたが、受け入れられなかった
自分としてはCATV放送局への移行を確信して機会を待っていた。
- 無線パケット通信始まる
- 400M帯FMレピータ日本で許可(常滑市本宮山レピーター設置参加)
掲示板がほとんどで無線クラブ員が使用したキボードチャットも行われた。
- 英会話教室通い開始
エリザベス カナダ バンクバー (当時)中津川在住 中津川教会の宣教師 河和で2年間受講
カールコックス(奥さんは日本人) アメリカ ロサンジェルス (当時)美浜町河和在住 武豊教会宣教師 奈良の教会へ牧師として移住 ベトナム戦争従軍 2年間受講
ヘルナンデス(奥さんは日本人) アメリカ テキサス 半田市在住 ヒスパニック ベトナム戦争従軍 2年間受講
アルバートサスラー(奥さんは日本人) アメリカ コネチカット 常滑市在住 陶芸家 一年休学を除いて15年受講中



(写真は河和航空隊滑走路にてHF帯運用)
モービルからの海外交信JA2DZQの出会い
TVI(テレビへの混信)に悩まされ、特に短波帯21Mでは顕著でした、以前からモービルHFを運用していましたが、英会話も順調に進んだので
オーバーシ(Over Sea)を中心に運用を決意しました。JA2CWXの衝撃英語から何十年も過ぎていましたが、そこそこ英語が話せる様になったと思ったので、ラバースタンプQSOに多少英会話を交える事が出来ました。14Mでアメリカ局のラグチュウにブレイクインして交信出来た時は
大変な喜びでした。その後もロサンゼルス地震、サンフランシスコからハワイへの旅客機パサーとの交信、東京からアンカッレジへのボーイング747貨物機パイロットの交信、フランスのノルマンディー(地上最大の作戦"TheLongestDays")の局との交信は感激でした。又、ドイツ局の交信では父がドイツを大変尊敬していたのでその事をある局に話しましたら友好的な話が出来ました。
常滑港でモービル海外交信をしていた時、JA2DZQさんが関心を持たれ、自分もやってみたいと言われました。私が書いた"初めての海外QSO"のコピーを渡しました。その後も熱意は衰えず数百カントリーと交信されました。"継続は宝"私の好きな言葉です!
- JM2ORB,JP2BBT,JN2BNH との関係
- CATVとアマチュア無線
- ウインドウズ95の衝撃
- 携帯電話とトランシーバー
- 電話、デジタルCATV、インターネット 一括光通信ネットワーク
提案推奨(NTT INS構想)
- インターネットの世界観
- インターネットのISDN接続(64K)
- インターネットのホームページ作成(HTML,CSS,JavaScript解析)
- インターネットの光ファイバー接続開始(100M)(Anfy,Flash5解析)
- インターネットのウエブデザインPerl 言語 解析研究
- インターネットのウエブカメラ取り付け配信(携帯電話へ配信)
- インターネットの個人サバーバー立ち上げ(WindowsXP)運用テスト開始
- インターネットの個人サバーバー(大容量)を利用したウエブTV(ビデオ)配信テスト開始
- インターネットのウエブデザインPHP 言語 解析研究
- 次世代ネットワークNGN(Nexy Generation Network)調査研究開始
- (2017/3から)C言語”マイクロソフトVisual Studio 2017”で(C#)調査研究開始